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二ツ橋半生-たまにはこんなお話も-

Posted by Futatsubashi on 25th 6月 2010 in 日常, 自分の話

SNSとかではほんの少しだけ話したけれど、聞かれなければ基本話さないので、公(おおやけ)では黙っていた僕自身の話。
最近僕は良く身体を悪くしたりする。そんな時や、他の人のBlogでその人の半生也を読んだりすると、自分自身の存在の証明も書いておいた方が良いのかなと思ったんだ。
例え歴史上の偉人になれなかったとしても、自分自身で選んだ道。挫折と後悔(局地的な)、自責の念は多いけれど、それでも自分の選んだ道。

大局的には後悔なく生きていきたい。

僕は韓国人と日本人のハーフの父と、純日本人の北海道人の母との間に生まれた。
父はハーフと言う事以外には、僕は名前すらも知らない。養父もいたが、こちらも韓国人と日本人のハーフだった。
3人の姉もいた。

生まれたばかりの僕は非常に身体が弱く、死に至る病も含めて極度に太りやすい体質の子供だった。
先祖から裕福な家庭で育った母は、僕の身を案じて業界(芸能)に放り込んだ。
養父は元々足が弱く、働かないタイプの人間だったので、母のお金と僕の稼ぎに寄生した。
(おかげで死に至る病は無理なダイエットやその他で克服して、食べても全く太らない体質になったけど遺伝的な糖尿疑いも発動したけど今は(笑))

それ自体は特に問題はないし、寄生されるのも苦ではなかったんだ。でも、気に食わない事があるとすぐに母や僕を棒でぶったり。
暴力を振るうのは大嫌いだった。僕が殴られるのは良い、母に手を出す父が嫌いだった。

でも。
養父のお母さん(養父方のお婆ちゃん)はとても僕は好きだった。セガサターンを買って来てと言ったら『3DO』を買って来たり。
子供心にエッチなゲームが遊びたくてPC9801を買って来てと言ったら『マッキントッシュ(パワーマック)』や『ピピン』を買って来るような婆ちゃんだったけど。
(僕と言うとウインドウズ派でAndroid派だと思われがちだけれど最初のパソコンはマックだったんだよ(笑))

大好きだったんだ。
その婆ちゃんも暴徒(反朝鮮人学生集団)に公園で殴られて死んでしまった。
養父方の爺ちゃんの方は天寿だったと思う(もうあんまり覚えていない)。

どちらにせよ養父以外はみんな良い人だった。
だけれど、何故か昔から人の死に際して涙を流す事が出来なかった。死だけに限らず、卒業式やそう言ったものでも全く自然の涙は出なかった。
(演技で泣く事は出来た)

喜怒哀楽に乏しいので、業界の人間からは「表情を出さなければ男前なのにな(表情を出すと歪むらしい)」と致命的な事を言われたり、友人からは冷血人間とも呼ばれた(苦笑)
もっとも、あの頃の僕は確かに。自分の能力以上の存在に錯覚していた、事実嫌な奴だったのだけれど。平たく言えば『万民とは違う種』だと思っていた。
そしてそれが絶対に正しい事、すなわちイコールで『善』だと思っていた。それが僕の最初の大きな『罪(つみ)』だ。

『罰(ばつ)』も来た。
それがため、養父はこの頃から僕達家族の前からいなくなり失踪した。同時期に2chで晒される事となり、子供の拙い文章で必死に削除依頼も出したが当然のように『却下』された。
嘘の住所、嘘の家族構成まで書かれ中傷され死に掛けたが。収入が絶たれる事になるので、母と姉達だけを残して死ねず。結局僕は『ある優しい人』のおかげで命だけは助かった。
僕の2ch嫌いはその頃からはじまったが、今ではまぁ2chもあっても良いんじゃないかなとまで思えるようにはなって来た。

見なければ、気にする事がなければ心は痛まないと言う方法論を見つけたから。
あそこは別にあっても良いかとも今では思う(人間の怒りの記憶は時間の経過と共に薄れる。それが許容に向かうかはその人の資質の問題)。

ただ、母は養父がいなくなってしまった事が酷く哀しかったようだ。
そして僕は十代の後半に養父を探しに行く旅に出た。

養父の事は憎かったが、母を悲しませたくはなかったから。
当座のお金を置いて、母は姉達に任せて日本はおろか、ソウルにもロシアにも足を運んで養父を探した。
ロシアでは勘違いで軍人に追い掛け回されるとか(酸素欠乏症になった)、ほんと踏んだり蹴ったりだ。
結局養父は見つからなかったが、最近まで養父は住んでいたと言う家のおっさんは見つける事が出来た。

そのおっさんが言うには「貴方の養父さんは死んだよ」だった。
どう言う風に死んだのか、経緯はさっぱり教えてくれなかったが、養父への『線(せん)』はそこで途切れてしまった。
それ以上の捜索は非常に困難となり捜索は諦めた。

ただしこの時、パスポートを落とし。中国で途方にくれて赤土(あかつち)を食べて飢えを凌いでいた時に。
2ch事件の時に助けてくれた『ある優しい人』が中国で『偉い人』だった事がわかり、今の会社に入る事が出来た。
またもその人に救われた。

その御方への忠誠心は返しても返しきれないほどで死んでも悔いは何一つない。
ただただ、母に「養父は死んだらしい」と伝えるのが辛かった。若くて美しい僕の母はただ一言「そっか」と呟いて僕に心配をかけないようにしようとしていた。
2人の姉も、僕に気を使わせないようにしようとしていた。

その頃だったかな?
姉の一人『一巳(かずみ)』が、資本家と結婚するためにキューバに行ったのは。
一巳は、モヒカンのチェコスロバキアの火吹き芸人の彼氏を連れて来たり、お金がある人ならどんな人でも『利用』しながらポイ捨てしていくような姉だった。
そんな姉だったから、当然僕との馬は合わず喧嘩ばかりしていた。一巳姉ちゃんだけ、養父の連れ子だったと言うのもあるのかも知れない。

突然家の中がガランとしたような虚無が駆け巡った。
そんな母と2人の姉ちゃんに孝行をしようと思い、旅行に行くように勧めた。お金は僕が出したが、これが第二の僕の大きな『罪(つみ)』だった。
その旅行パックで、現地での事故で母も姉達2人も死んでしまった。一夜にして一巳を残した全家族を僕は失ってしまった。

喪主は僕が勤めたが、一巳は遺体のない葬式にも帰っては来なかった。
僕が悪い子だったから、神様は僕から何もかも持っていったんだと。人生で誰が死んでも、どんな時でも泣けなかった僕は、その時はじめて泣いた。
風が強い日の事だったと思う。

沢山泣いても、お腹だけは減るんだなと。ふらふらと食べ物を食している時にふと『僕には家族がまだいた』んだと、母方の方の婆ちゃんの事を思い出したんだ。
既に身体が弱く半痴呆(時間によって呆ける。完全には呆けてない)になっていた婆ちゃんを、残された自宅で必死に介護した。もう、この人しか僕の家族はいなかったから、命が少ないのは誰の目で見ても明らかだったけれど。
せめて最後までは介護を続けようと、数ヶ月に渡り介護した。

介護疲れなんかなかったし、水が飲みたいと言えば水を夜中でも何度でも渡し、肩を貸してお手洗いまでトイレの時は毎回運んだ。
おしめとかに頼らず、自分の肩をかしてきちんとお手洗いまで運んだ。

「あんた誰だい?」「窓の外から大勢の人が眺めてる」と言い出す時があっても、構わず接した。
なので、昨今の『介護疲れ』と言う風潮がわからない。僕だけなのかも知れないけれどね。
そんな婆ちゃんも数ヶ月に渡り生きたが、肺炎による呼吸困難で死んだ。最後まで母と姉と『僕』に会いたがっていた。

二日ぐらい前は僕と認識出来ていたんだけれど、今際の際には僕だと認識出来なかった様だ。
それだけが心残りだった。

やる事が全てなくなった後、荷物を整えて中国で『ある優しい人』の会社でご奉公しようと思っていた時。その人は僕を日本に残してくれた。
日本で働けるようにしてくれた。Second LifeなんかでもSIMやってたり、半分ショムニ課状態になってて、本国の他の役員からは罵られるのだけれどね(苦笑)
生まれてからこの日までで、足は養父のように悪くなり。いや、半身不随状態だから養父より酷いのかな。

脳は痛くなり(MRIやCTでは異常なかった)、身体の様々な部分を悪くしたけれど。
後悔と挫折も多かったけれど、これで良かったのかも知れない今では思っている。

僕がこの世を二極論の善悪で語らないのはそう言う事情があったからなのだけれど、僕は人が悪人と思うのならそれでも構わないし。
悪人で良いと思う。自らの正義を振りかざすジャスティスの方が僕は危険だと思ってる。
Androidもやるって言った時、電通や業界人達に「Appleと電通を敵に回して(中略)」とか脅迫された事は未だに忘れん(笑)

Appleは上段の通り好きだけれど多様性を求めて、石礫(いしつぶて)を同胞達から投げられるとは思わなかった(苦笑)
だから僕は今は『悪』を名乗る武装決起企業天竺をやっている(笑)

何一つ大局的には後悔していない。
うん、僕は僕らしく生きようと思う。

それでいいよね。

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